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吉村ゴンゾウあわー

自作のショート・ショートや読書感想などをアップしています。気負わず適当にやります。テーマは「中途半端を恐れない」。

実録「ほされリーマンの独白」

 職場でほされているらしい。ということを改めて実感させられた。
 どうやら、上司は本気で私をやめさせたがっているようだ。重要な会議の席で、社長にことさら私への不信を強調されてしまった。いつからか若い子たちにどんどん仕事を奪われて、今ではほとんどやることがない。仕事がないので、どのような結果も残しようがなく、会社の評価は下がる一方だ。いよいよ追い出される寸前。秒読みは始まっているのかもしれない。
 最悪なのは同じ課内の人間に味方がいないことだ。どういうわけか、その上司を除いてあとはみな後輩なのだが、私は彼らからやたら不評を買っているらしい。けっして悪口がもれ聞こえることはないが、一部の女子社員の態度はあまりにあからさまなので、いくら私が鈍感でも気まずさを感じないわけにはいかない。彼女達は相当シビアな視線で常に私を監視しているらしく、上司に逐一苦情として報告がなされていると上司から聞いた。悪意を持った視線を通せば、どのような言動でも醜悪にゆがめられてしまうのは常。仕事がないので会社にいるしかないのだが、そんなわけでデスクはさながら針のむしろなのだ。
 「職場には、いて欲しい人間と、いてもいなくてもいい人間、そしていて欲しくない人間の3タイプがある。お前はまさにいて欲しくない人間だ」とは、先日上司からいただいたありがたいお言葉だ。私はこの言葉を胸に、今新たな天地へと旅立とうとしている。キャリアにおいても金銭的にも何の蓄えもない私が、裸同然であまりに厳しい灼熱の格差社会に放り出されれば、瞬く間に下流に押し流され、貧困スパイラルのど真ん中で搾取の対象となるのは間違いない。そのことを重々承知した上で、さぁやめれるもんならやめてみろ、と言いたいのだ、あいつは。私が自ら、やめます、というのを今か今かと半笑いで待っている。
 もしかしたら、ここでやめたら負けなのかもしれない。でも、もうこれ以上は耐えられない。私には家族がある。守るべきものがあって、戦っている。それでも限界はあるんだ。
 生き残り競争に私は負けたのだ。負け組みなのだ。と認めなくてはいけない。本当のところ、上司からの不信も、後輩達からの不評も、すべては身から出たさびだ。なるべくしてそうなっていったので、文句の言いようがない。さまざまな醜い陰口を、はたまた魂をえぐるような冷ややかな言葉を直接言われるような、それだけのことはやってきたのだろう、私は。さもなくばこのような立場になるはずがない。どんな理不尽さの背景にも、理解できるかできないかに関わらず、なにかしらちゃんと原因があるというのが私の考え方だ。このような結果にも、れっきとした原因があるのだと思う。そんな私が、猛毒のような「原因」を抱えたまま、冷酷な社会で「勝利」を納められるはずがない。
 しかし、もとはと言えば、その原因の根底にあるのはなんだっただろうか。私の人間性についてをその対象にして槍玉に挙げるのは、生来のものに由来している部分が多く、根本的な問題であるし、ひいては単なる悪口にすぎないので考えないでおこう。いやその人間性の問題点を社内において、ことさら悪い面を強調し悪化させる原因があったはずだ。
 私には不満があった。そのあまりに強い不満は、会社に対するものがほとんどだった。そして上司に対する根深い不信があった。公平性を欠き、日ごとに態度を変え豹変する社長が嫌いだった。自らの保身を最優先し社長におもねるだけで、兵隊としての能力もリーダーとしての器もない上司に怒りを覚えた。強欲で厚かましいだけが取り柄の営業部員達のわがままに巻き込まれたり、社外の人に同類と見られたりすることが我慢ならなかった。なによりも、嘘で塗り固めたありものしない幻想を売るような事業そのものに吐き気がした。そしてそんな将来性のない社業に愛想が尽きていた。
 こうした私の心に渦巻いていた不満が、ことあるごとに表に顔を出し、さまざまな形で周りの人間に影響を与えていたのだろう。不満だらけの人間には感謝などあるはずもない。だから、みなに与えた影響が良い影響であるはずがない。私が会社にいられなくなったのは、そういうメカニズムだと思う。
 ただ、少なくとも私が勤めている間、毎年毎年何人もの人間がやめていき、毎年毎年入ってくる人がいるような会社だ。ついに私の番が来たというだけのことなのかもしれない。人が定着しない会社なのだ。私より入社がはやい上司以外の先輩はみんやめていった。だから、上司以外はみな後輩なのだ。見方を変えれば、上司はこれまでそうやって、一人一人順番に会社から追い出してきたのだとも言える。そしてついに私の番が来たというだけのことに違いない。
 ろくでもない会社なのだ。ろくでもない社長と、ろくでもない上司に牛耳られた、ろくでもない職場なのだ。そう思えば、ようやくこのろくでもない現場から抜け出せるときがきたのだから、これは喜ばしいことのなのかも知れない。上司は感動的な解放へのチャンスを私に授けてくださったのだ。どれほど感謝しても事足りないじゃないか。
 そうだ、こう考えるんだ。私は、不満だらけで仕事も嫌々やらされていたのに、それでもなかなかやめれなくてだらだら続けてしまって、会社にとっても自分にとっても不幸な状態にいた。社内での立場が悪くなったのは当然のことで、なにも悪いことじゃないんだ。OBとなった先輩がたもみな歩んできた通過点じゃないか。いよいよ次のステップに進む権利を獲得したのだ。私は成長している。幸福へ向かって進歩している。
 ああ、私は針のむしろに座しながら、幸福の絶頂にいるのだ。煮えたぎるような灼熱の格差社会に、すがすがしく夢と希望を持って乗り込むのだ。

 なんたる発想の転換。ちょ、おま・・・マジ頭良いな。

小説「救いようのない話」

 いらっしゃい。おや。始めてみる顔だね。どなたかからのご紹介?ああ、そうかい。雨宿りってわけか。まあ、いいよ。一応会員制なんだけどね、どうせ今日は他に客もないし。カウンターしかないんだけど、それでよければ呑んでいってよ。たいしたメニューもないけど、うまい酒とつまみをだすからさ。
 この辺にはよく呑みにくるのかい。へえ、なるほど。それで一人でこんなとこに入ってきちゃったってわけね。まあ、あんた、運が良いよ。ほら、うちの店「ハニーフレーBAR」って名前なんだけどさ、ここはちょっと特別なお店だからね。
 ねぇ見てよ、このお酒は知ってる?見たいことないだろう。こりゃあ、この世の不幸をすっかり洗い流してくれるってぇ聖水で作った幻のウィスキーさ。その身に不幸が重なれば重なるほど、そのうまみは倍増するって代物だ。お前さんも見たところ、人並みに不幸をしょってるんだろう。この味わいがわかるぐらいに。そうかい、おいしいかい。そりゃあよかった。
 ところで、あんた。悲劇はあんまり好きじゃない方?わたしはね、どうもなんでもかんでもハッピーエンドだ大団円だってのは性にあわなくてね。どっちかっていうと悲劇の方がスカッとするんだよ。共感するんだろうね。やっぱり本当は不幸な出来事って少なくないだろ。しかも誰だって人生の終わりは死ぬときにくるんだから、めでたしめでたしってな都合のいいトコで区切ってさ、それでああよかったねって訳にはいかないでしょう、人生は。だからハッピーエンドってのはどうもウソ臭いんだよ。あんたもそう思うだろ。
 ごちゃごちゃした店だろ。え?何でかって?あ、ちょっと、ちょっと。うちは確かにあんまり片付いてやしないけどさ、あんまり勝手にあっちこっち触らないでよ。なに?それかい?そりゃ、あれだよ、サイコロじゃなくてさ。ある動物の骨なんだけどね、まぁ小さすぎてドコの部分とかはわかんないんだけどさ、あまり気持ちの良いものでもないから、こっちに置いといてよ。大事なものなんだからさ。そんな大事なものをなんで無造作にって?そりゃ余計なことだよ。
そうそう。そりゃあ、無視してればそれで済んだのに余計なことに首突っ込んだせいで知らなくてもいいこと知ってしまうってパターンだよ。調子に乗ってやりすぎて、結局のとこ後悔先に立たずってわけ。今のお前さんのようにさ。あんたの人生にもそんなことあったろ、今まで生きてきてさ。
 この近所に食品工場があるのを知ってるだろ。そう、あのやたら大きくて白い奴。今は最新の設備かなんかでほとんど無人でやってるらしいんだけどさ、ちょっと前までは何百人もの人を雇っていろんなものを作ってたんだ。従業員はみんなこの辺の住人でさ、昼は食品工場、夜は水商売って感じで昼も夜も同じ顔突き合わせてね、仕事仲間が店と客の関係になったり商売敵になったりで、ややこしいかったんだよホント。
 それに工場で作った食品も結構この近所で消費する感じでね、昼に自分で作ってたのと同じものを客に出したり、客として食べたりしてさ、今考えるとあの工場に占領されてたんだな、この辺り一体が。閉塞感を感じないぐらいに密着してたんだよ。
 ああそうなんだよ、仕事そのものは相当厳しいものだったって。朝早くから仕込があってね、交代制で深夜も稼動してたから、シフトによっては寝る以外はずっと働いてる日もあったんじゃないかな。昔の工場だから見るからに危険な機械も多くてさ。過労のせいで誤って事故を起こしちゃうことも何度かあったらしい。何トンって食材を砕いたり練ったり焼いたりする機械が相手だから、いっぺん事故を起こしたら当然ただじゃすまない。そんなんだから毎月何人もの人間が工場を辞めて、町から出て行ったね。別に工場辞めたら町から出て行く決まりがあったわけじゃないんだけど、例外なくみんなそうだったね。いつのまにかいなくなってる。まぁ、普通の神経じゃいられないよね。みんなの目があるんだ。でも逆にどんどん他所から独り者の労働者が入ってきてたから町はいっこうに寂しくならなかったし、工場のほうでも使い捨ての労働者が入れ替わっていくのは問題視してなかったんんだろうね。
 他所から来た人間もすぐに工場と町に馴染んで気がつくと家族も同然の仲間内感覚になるんで、ここに住んでると他人に対して遠慮がなくなるんだ。何でも互いに言い合うし、仲間内だからこそつまらないことで喧嘩もする。もちろん良い意味で人情深い関係ではあるんだけど、一歩間違うといい加減な馴れ合いになりかねない感じさ。
 ある日、この近くの居酒屋でちょっとした揉め事があってね。事情を聞くと店で出したハンバーグにでっかい爪が入ってたって言うんだよ。普通なら「ちょっと爪入ってたよ」ぐらいの文句言えば新しいのに交換してもらえるだろうし、爪さえよければ食べちゃったってもかまわないだろう?でも、ここではそうはいかなかった。客と店主は工場でも近いところ働いてる一応顔見知りだったんだ。だからちょっと調子に乗って言い過ぎたんだろうね。また文句を言われた店主の態度も悪くてね、売り言葉に買い言葉って感じになってしまった。
 「お前らキッチンで爪切ってるんじゃないのか」ってのが客の主張だ。無茶苦茶だが言いたいことはわかるだろう?店としてはそんなことを他の客の前で言われたんじゃたまらないもんだから、従業員全員の指先見せてキッチンに入る前に指先の手入れをしていることを証明してみせる。客としては爪入りのハンバーグを客に出しといてそこまで堂々と開き直る姿が気に食わない。キッチンを見せろと客が無理やり乗り込んでみると、ハンバーグは手作りじゃなくて冷凍だったことがわかった。そもそも爪はハンバーグの中に入ってたわけで、上に乗ってんじゃないんだから、店のキッチンで入ったんじゃないってことになる。客も店の人間も、もう調べなくたって知っている。この冷凍ハンバーグは、自分達が働いている工場から出荷されたものだってね。
 店の方では、もうこの時にはすっかり熱から覚めて、これ以上の追求をするつもりはなかった。そんなことしたって、何の得にもならないからだ。自分達も含め町全体が世話になっている工場だ。騒ぎを起こせば、町にいられなくなる。ところが客の方はもう後に引けない感じになってしまってた。周りの店からも人が集まってきている。みんながみんな仲間内さ。そのみんなの前でこれだけの騒ぎを起こしたんだ。「なんだあの工場だったのか」ってだけで一度突っ込んだ首を引っ込めるわけにはいかない。
 男ってのはこういうときにゃ損だね。バカだから見得やプライドが先に立っちゃうんだ。やばいなって思っててもね。そう、そこにいたみんなも、こりゃあやばい話になるって思ってたんだ。だから、逆にその客の男をを矢面に立たせといて、とことんまでやらせてみたいと思っちゃった。
 どうなったと思うね?その男は、次の日には町からいなくなったのさ。どこにいったか誰にもわからない。でも、この話はここで終わりじゃないんだよ。ここからが不幸の始まりさ。
 例の件は、けっこうな大騒ぎだったから、気になってた人間がほかにもいたんだよ。何人もね。で、突然あの男が町から消えた。こりゃあ何かあるって誰もが思うだろ。で、いろいろ調べはじめてみると、確かな話じゃないがいろんなことがわかってきた。
 冷凍ハンバーグのラインで働いていた人間を全員洗ってみると、爪についてはみんなに心当たりがないということだったらしい。そもそも爪がハンバーグの原料ミンチの中に混入する可能性は肉の塊をミンチに変える工程だけ。当然、その工程のライン上で爪を切るなんてバカなことできるわけないし、入室管理で指先の手入れは徹底されているから、「爪だけ」が混入する可能性は絶対にありえない、ということだったんだ。
 わかるだろう?可能性があるのはミンチにする機械に指ごともってかれるってパターンだ。だけど、さっきも言った通り誰にもその心当たりがない。働いていた人間にはみんなちゃんと全部の指がついてた。調べられなかったのは、工場をやめて町からいなくなった人間についてだけだ。冷凍ハンバーグのラインからいなくなった人間はその周辺の一ヶ月以内で見ても5人くらいはいたらしい。ここの労働者は独り者が多かったし、いつごろ辞めてどこにいったかなんて誰も知らないから、調べようもないのさ。
ところで、あんたもさ、辞めた人間のうちの誰かがたまたま指を機械に持ってかれて、そのまま工場を辞めたって思うかい?ふーん。まぁ、それもいいさ。どっちみちその指は誰かの腹の中だ。それを証明したって誰の得にもならないんだよ。
 でね、例の騒動から2週間くらいして、あの男の家族と名乗る人が町を訪ねて来たんだ。「うちの人知りませんか」ってね。みんな「あの男は工場を辞めて、町を出てった」としか思ってなかったからそう答えたんだが、「そんなはずはない。2週間前から連絡が急に途絶えたので何かあったに違いない」と言うんだ。
 それを聞いた町の人たちは、さすがになんとなくわかっちまった。これまで急に工場を辞めて町からいなくなった人たちは、本当に工場を辞めていなくなったのだろうかってね。
 結局ね、事件は明るみにならなかった。いろんな力関係が働いて、真相は闇から闇だよ。あの男もただ単に家族に内緒で失踪しただけかも知れないしね。いつしか工場はほぼ完全無人化になって、当時のことはなかったことになってる。町の人たちもそのことには触れたかがらない。そりゃそうだろ、その工場で作ってたのも、その食品を食べてたのもわたしらなんだから。だから、知りすぎちゃったあの男を消したのも、工場側とは限らないんだよ。それがみんなのためだったのさ。とにかく町ぐるみだったからね。
 でもね、一つだけ事実が残ってるんだ。これ、なんだかわかる?おまえさんがさっき勝手に触ってたやつだよ。これはね、当時わたしの店で出したハンバーグから見つかったものさ。まさかと思うかい?ミンチになった牛や豚のだったらいいなって思うだろ。まぁ、それを信じるか信じないかは想像にまかせるよ。ほらね。こんなことなら、知らなきゃよかっただろう。
 さて、今日の酒のあてはこんなところでおしまい。どうだい、ウィスキーの味が変わったろ。嫌な話も甘い蜜に変わるんだ、この店ではね。
 おや、こんな時間に常連さんが来たね。毎度どうも。ああ、そうかい、へぇ。雨がね。そりゃ、いい酒が飲めそうだ。
 おまえさん、もう雨もやんだらしいよ。わたしはまたあっちでつまらない話をしなきゃいけないから。ね。ああ、じゃあ、またおいでよ。うん。その時も、うまいお酒とつまみを用意するからさ。

小説「死のうと思った」

 これはとても怖い話だけど、今日、ほんとに、なんとなく死にたくなった。
 何気なく、ただ、「ああ、死んでしまおうか」なんて考えた。ほんとに突然ふとそんな気がした。友達の家のマンションで、扉を開けると曇り空が見えて、無意識に柵にもたれかかって下を見ていたら、ああ五階からなら、あそこに足がちょこっと当たって、激しくはねて、少し頭のほうに重心が傾きながら、時間がゆっくり流れるように感じたりして、それで背中から落ちて首とか肩とか砕けちゃうほど打って、それでたくさん血を吐いて、もうきっとダメなんだろうなぁとか考えてしまった。我ながら綺麗な死に様じゃないわ。
 でも、なぜかしら。すごく生きていることが虚しくなってきた。
 別に誰の為に、何のために生きている自分ではないと思う。そしたら、ここで、急に死んじゃうのも悪くないかって、変な感じ。少し生暖かい風が足元を通ってスカートをはためかす。あぁ、今日はズボンにしときゃよかったなと思って、死ねなくなったとたん、さっきまでの考えに急にぞっとした。
 失いたくないものってあると思う。
 でもそれが、よくわかんなかったり、手元になかったりしたらそれってやる気でないじゃん。無気力。もういいや。別に何にも執着なんてないよ。ただ当たり前の毎日。嬉しさも、楽しさも、演技にしか過ぎない。本当のヨロコビってなによ。こんなんで、どうして無理に痛いことやツライことを我慢するんだろう。そこに何が待っているんだろう。
 もう、このへんでいいかって、本当にただなんとなくそう思った。
 ワタシは大切なお友達を亡くした。まだ死んではいないけど、もうほとんどこの世の人ではなくなった。その人がいなければ、ワタシは今こうしてこんな風に生きていることもなかったんだなと思う。
 ワタシの大切な一部だった。
 でもその人はあっさりワタシの知らぬ間に事故にあって植物になった。見に行ったら、もうその人ではなかった。もうダメなんだなって感想だった。
 ずっと、下を見てた。やっぱり五階は高い。時折、友達の部屋からワタシを呼ぶ声があったが、あの娘達の中に入ることは、今のワタシの心にはしんど過ぎた。呑み過ぎたみたいだから酔いを覚ますの、と言ってワタシは一人部屋を出たのだ。
 ワタシは大切な人を一人失った。そして、ワタシを呼ぶ彼女達もまた、その共通の友達を失ったのだった。
 あんなことがあって、初めて集まって、昔みたいにまた騒ごうよと言い合った。でもやっぱりワタシ達の心には、何かが欠けていて、どんな話題も、どんな行動も、その人を連想しないわけにはいかなかった。そこでワタシはあえてその人の話題ばかりを選んで話した。話しているうちに、程なくいたたまれなくなって、ワタシは結局自分からその場を逃げ出してしまった。ワタシは「友達の家のマンションの扉の向こう」で、夜風に当たりながら、もうこの娘たちと集まることはないだろうと、どこかそんな気持ちでいた。
 ワタシは大切な人を失った。
 そして、もう一人。もっと偉大で大切な人をなくそうとしていた。今にもその人の灯火は厳しい宣告を受けようとしている。
 ワタシの父は昨年、ガンであることがわかった。その時言い渡された余命は、つい先週尽きてしまった。実際、父は何時死んでもおかしくなかった。今日にも、明日にも、と言う話を何度も耳にした。そして、なのに今、ワタシはここでこうしてのうのうとしている。ここに来て、なんだかみんなと会って、知らず知らずのうちに誰かに安らぐ場所を求めていたようだ。ところが、そんなものはここにはなかった。ワタシの唯一の親友だったあの人は、もうここに来ることもできない。笑いあうこともできない。ああ、またワタシはただ単に、不意に大切な人を失うんだ。ワタシにはどうすることもできないんだ。
 親友が事故に遭ったとき、ああ、もう今後の人生なんて考え付かない、そう思った。だけどワタシは、今もこうして生きている。意外と人間は心のよりどころが一時的に消滅しても、柔軟に対応できる都合のいい生き物なのだ。頭ではそう思った。確かにワタシも今もこうして生きている。でも生きているのに、大切な部分に穴はぽっかりとあいたままだった。人間が強くなると言うことは、開いてしまった穴がふさがることなんかじゃない。その穴を自分の財産として、幾つも幾つも抱えていられることだ。そしてそれは並大抵のことではない。現にワタシには、まだまだ強くなんてなれっこないのだ。
 一人の人間がいなくなることは、こんなに大変なことなのか。たった一人の人が存在しないだけで、ワタシの心は、人生はこんなにも・・・。ワタシの虚しさも、悲しさも、ワタシの涙も、笑いも、ああ、たった一人の人間が、こんなにも空虚を、空白を、無力感も、脱力感も、そう、生きている意味さえも!
 今、ワタシはもう一人の大切な人を偉大な人を失おうとしている。でもワタシは、もしかしたら失うかもしれない、ただ普通にそう思っていた。かつてはただそう思っていた。失ってしまったとして、どこまでの影響があるのかワタシにはまるで想像がつかなかった。果たして、どれだけ悲しいのか。ワタシはどれだけ涙を流すのか。まるで実感がなかった。 もしかしたらそれは、ほとんどワタシの生きていく上でたいした動揺を与えないかもしれない。もしかしたらそれは、ほとんどワタシに悲しみを与えないかもしれない。
 父のガンを知ったときは、それは悲しかった。そんなバカなと耳を疑った。でもそれはワタシの中で現実味を失った感情だ。やっぱりこんなことって信じられないんだ。ワタシはどこかで、まさかお父さんが死ぬわけないとたかをくくっていたのだろう。その恐ろしさの内容も知らずに、そんなことは起こらないと。
 しかし、思わぬところで先に親友がやってしまった。突然いやおうなしに叩きつけられた現実。人はちょっとしたことでも死んでしまう。もう二度とは元に戻らない。ほかの誰もが、そしてこのワタシもいつかは死んでしまう。そんな当たり前の大ショック。
 一人の人を失うことが、これほどまでに、とてつもなく大きなものを失うことだなんて。 悲しくて、悲しくて、ことあるごとに言動を思い浮かべ、「あの人がここにいればね」、そんな話に自分の人生の大半をどこかに置き忘れてしまったような、感情。やるせなくて、せつなくて、もう取り返しがつかないのがわかっているからこそ、あきらめがつかない、気持ちの悪い矛盾。悔やんでも。悔やみきれない。
 ワタシは一人、大切な人を今にも失おうとしている。この今、この時にも父は苦しみと戦っているんだ。そして本人こそ、人の生き死にについて一番目を背けたくて、一番見つめあってるに違いない。
 人は必ず死んじゃうのだ。今助かっても、何時でも死はそこにいる。それはなにもお父さんに限ったことじゃなくて、生きているもの全部だ。残されるものにはどうすることもできない。自分は自分で強くなるしかない。なんて悔しいことだろう。
(やだ。こんな思いなんてもうしたくないよ。こんなに、つらくて悲しくて、寂しい話なんかないよ)
 誰かが一人の人を失う。これは本当に恐ろしい話なんだ。ただ、なんとなく、急に誰かがいなくなるなんて、こんな迷惑で腹立たしいことはない。虚しいし、悲しいし、せつなすぎる。
 あら、そういえば。ワタシったらこんなにも残酷なことをワタシの親しい人たちに押し付けようとしていたのかしら。
 高い高い五階から、下をじっと見ていたら、だんだん笑えてきた。で、なんだか笑っちゃった。
 ワタシは一人で思う存分笑って、とってもハイな気分になってから、みんなの待つ部屋へと戻った。自殺でもしそうな顔だったと言って、みんなは心配そうにワタシのことを待っていたが、ワタシが思いのほか楽しそうに帰ってきたので拍子抜けして、またみんなで笑った。やっとみんなで心のそこから笑えたような気がした。
 心にあいた穴を抱えたまま生きれるほど強くなるにはまだ少し時間がかかりそうだが、ワタシは失ってしまった人たちのことを生涯忘れることはないだろう。

ショートショート「ギャンブル」

 勝負は常に一瞬だ。一瞬の攻防の中に、勝利の喜びと敗北の悔しさとを分ける、冷徹な分岐点がある。その一瞬に気がつかずに、のうのうとやり過ごしてしまうような間抜けには、真の栄光は永遠に訪れない。一瞬を見抜く洞察力と、そこにすべてをかける集中力を持ったものだけが、人生の勝ち組になれるのだ。
 俺の勝負は、目が覚める瞬間から始まっている。目が覚めたから起きるのではない。起きるべき時だから目が覚めるのだ。時間は必ず、5時59分。ここで失敗すれば、この後のすべて、今日一日だけでなく、今日以降のすべてが予定通りではなくなってしまう。取り返しが付かないという意味では、まさにこの瞬間に、勝ち戦か否かのすべてが含まれているといってもいいだろう。
 布団をたたみ、無駄な動きを極力排して外出の準備をする。所要時間は、きっちり15分だ。朝食の準備は昨夜のうちに終わっている。ラップをかけてあるマグカップには、きっちりと計ったインスタントコーヒーの粉と砂糖が入っている。冷蔵庫にはスクランブルエッグを盛った皿。ポットからカップに湯を入れ、電子レンジで皿を温めながら、トーストを焼く。
 6時30分。俺は、颯爽と自宅のマンションを出る。腕に巻いた電波時計を念のために確認するが、もちろん一秒の狂いもない。ここからが本当の勝負だ。俺はいつもと同じタイミングで歩き出す。右足はここ、左足はここ、とすべてが順調だ。想定外の障害物も見当たらない。いける。俺は勝利の予感を確信に変えつつあった。
 最初の信号が見えてきた。もちろん、今は赤信号だ。あと右足を7回前に出し13歩前に進めば、青信号に変わる。そして横断歩道は左足から。一歩目は、白線の上端とつま先が一致する。渡りきったタイミングで信号は点滅。前方に進み、右折する信号に来れば、青。予定通りだ。一秒の狂いもない。
 このまま、このまま目的地を行けば、必ず今日も結果を出せる。俺の目は、次の信号をしっかりと捕らえている。ここを曲がれば、この町に唯一存在するあの自動販売機がある。このタイミングならば、この時間、この瞬間ならば、絶対に「当たり」を引ける、当たり付きの自動販売機だ。信号を渡りきった。時間はどうだ。時計を見る、間違いない。期待通りの乱数を的中させるためには、100分の1秒の狂いも許されない。俺は、おもむろに財布を取り出し、お金を右手にスタンバイした。いける。今日も俺は成功する。俺は目的の自動販売機をにらみつけ一歩一歩近づいて行く。
 自動販売機には、当たりの抽選を演出するデモランプがチカチカと明滅している。やった。寸分の狂いもなく、いつも通りのタイミングだ。俺は、素早くコインを投入し、決められたその瞬間にジュースのボタンを押した。この瞬間にすべて抽選は終了しており、大当たり乱数は的中しているのだが、演出ランプが安っぽい電子音を辺りに響かせながら抽選を装っている。人生をかけた勝負はクライマックスを迎えていた。
 俺は演出ランプの抽選結果を確認せずに、ゆっくりと振り返る。そこには、いつものように可憐な少女が子犬を抱えて私が振り返るのを待っていた。
「やあ、おはよう。今日は何にする」
 俺が声をかけると、彼女は満面の笑みを浮かべて「いつものやつ」と言った。当然、俺の背中では自動販売機が大当たりを告げる大げさな電子音が鳴っている。俺は自動販売機に振り返って、もう一度同じボタンを押し、出てきたジュースを少女に手渡した。
「いつも、ありがとう」
 少女がそう言って微笑みかけてきた。
「じゃあね」
 そういうと彼女は、いつものように俺に背を向けてゆっくりと子犬を地面に下ろす。
 今だ。
 俺は地面に手を突いて屈み込み、頭だけをくるりと回転させて上を見上げた。
 よし。今日は水色の縞柄。勝った。
 俺は少女に怪しまれないように、そのままもう一本のジュースを自動販売機から取り上げ、去っていく少女の後姿を笑顔で見送った。
 俺は一瞬に秘められた勝負の妙に、今日も感慨を深くした。

ショートショート「できちゃった」

 まだ朝になったばかりじゃないか、と思いながら僕はベッドの上で体を起こした。昨日は遅くまで勉強をしていたので、実質寝ていたのは3時間未満だろう。時計を見ないうちに体がそれを教えてくれた。
「大変、大変。トシさん、早く起きて」
 千明はついに僕の腕を引っ張って、無理やりにでも起こしてしまおうという勢いだ。
「何だよ。どうしたんだ」
 僕は布団の中でわけを聞こうと抵抗して見たが、彼女は大変だから来てと繰り返して、その場でわけを説明する気はなさそうだ。
 それでも、あまりの気だるさにベッドの上でもう一度横になり目をつぶる。頭の中にさっきまでの夢の断片が残っていて、今にも眠ってしまいそうだ。
「大変だよ。ねぇ、早く来て」
 千明の声と腕が僕の頭と体を揺さぶる。
「わかった、わかった。だからなんなんだよ、一体」
 気合を入れて一気に体を起こすが平衡感覚がおぼつかず、千明の肩を借りて歩いた。頭がはっきりしないせいで、「大変なこと」の内容がまったく予想できない。地震か、火事か、怪我か、それとも変わった虫でもいるのか。しかし「なんだろう」と思いながら導かれた先がトイレだったことで、ある心当たりが芽生えた。そして芽生えた瞬間、それが的中していることを知る。
「ほら」
 と千明に見せられたのは、市販の妊娠検査器具だ。見覚えのあるそのおもちゃのような簡単な構造のチェッカーには小窓が二つあり、確かにその両方に反応のシルシが浮かび上がっていた。無論、妊娠を示すマークだ。
「ね、反応出てるでしょ」

 僕は、こころなしかはしゃいでいる千明の手を軽く振りほどいてベッドの上に戻り、跳ね上げた布団をもう一度身にまとった。なんとなく笑いがこみ上げてきているのを感じながら、まだトイレの前にいる千明に呼びかける。
「本当に大変だな。えらいことだ」
「でしょでしょ。大変だと思ったから起こしたんだって。ねぇ、トシさん。どうしょう」
 やっぱり、にやけてしまう。でも、あまりに喜ぶと千明を怒らせてしまうか変に負担をかけてしまうかのどちらかに発展しかねないので、この嬉しさを隠さなくてはととっさに思い、わざとつっけんどんに答えてみる。
「どうしようったって、とりあえず医者に行けよ。まだ確定ってわけじゃないんだろ」
「大変だよ。だって予定外じゃん。どうすんの」
「だから医者に見せなきゃ」
「医者って、どういう」
「産婦人科に決まってるじゃないか」
 布団に入ったまま、面倒くさそうに言ってるとまた千明に腕を引っ張られてしまった。
「ねぇ、起きてよ。早く。ちょっと。どうする」
 千明の慌てぶりに、僕はついに声を出して笑ってしまった。
「ま、いいじゃん。どうせ早いか遅いかってことなんだし。めでたいことじゃないか」
「って言っても、新しい仕事始めたばかりなんだよ。なんかおかしいと思ってたんだよ。まさかって感じなんだけど、一応やってみようかなって思ったら、やっぱそうだったの。ね、大変でしょ」
「わかった、わかった。とりあえず医者に見せよう。話しはそれからだ」
「もう」
 千明は怒りながらも、心細げに僕の腕を離そうとしない。
「いいから、寝てなよ。俺も昨日遅かったからまだ眠いんだ。さあ、お布団入ろう」
「いらない。もう眠くないもん」
 僕は、どうしよう、どうしよう、と歌いながらリビングに行った千明を薄目を開けて見送った。まだ眠いが確かにのんびり寝てもいられない。夢の続きも忘れてしまったようだ。なぜだが笑いがこみ上げてしまうのをなんとか冷静に抑えながら、僕は心当たりについて思いをめぐらした。
 今が5月の末だから、あれはちょうど一月前の4月の末ごろだったかもしれない。これでできちゃうかもだよ、と千明に言われたのを思い出す。あの時の行為が今になって結実してしまったのだろうか。だとするともう随分時間がたっている。
 5月に入って千明は今までよりも収入のいいパートをはじめた。精神的に不安定なところのある彼女は環境の変化に弱い。軽い異変が出始めた時はきっとパートのせいだろうと考えた。そういうことで月のものが少しずれたり、気持ちが沈んで色んなことが嫌になったりするのはよくあることだ。体調も不安定になって、食欲も少し落ちた。トイレが近い割りに便秘がちだとおかしなことも言っていた。
 なんとなくだ。なんとなく、そうかもしれない、と漠然とした予感が僕にはあった。ただ、その予感が霞の向こうにありながらも確信に満ちた説得力を持っていたがために、僕は逆にその予感から背中を向けてきた。心の中では千明がすでに妊娠していることを感じていながら、あえて口には出さなかった。別に悪いことをしてるつもりもないんだけど、なんとなく後ろめたさを感じていた。もしかしたら、千明本人もそうだったのかもしれない。
 やっぱりか。という思いが僕をにやけさせているのだろうか。いや一方で、できないかも知れないという不安からの解放もあるのだろう。子供のいないカップルなんていくらでもいるのだ。新しい二人の生活の出発に引っ越ししてからの約3年間、避妊は一度もしてこなかったが「僕と千明の間にも子供をもうけることは可能だ」と誰にも断言できなかった。しかし、それが今証明された。千明は僕の最愛の人であり、これで千明は僕と千明の子の母親になれる。それがなんとなく、ただなんとなく嬉しかった。
「トシさん。ねぇ、ねぇ、いつまで寝てるの。もう起きなよ、ねえ」
 千明がリビングのソファに寝転がってわめきだした。眠いのは確かだが、僕も結局もう寝れそうにない。千明を一人ぼっちにしておくのも考えものなので、僕は不確かな足取りでリビングに向かった。頭が重い。が、口元は緩くなっていたのだろう。何笑ってるのよ、と千明に怒られた。
「ちょっと真剣に考えてよ。本当にこれって大丈夫なのかな」
「大丈夫だよ。愛し合う二人に子供ができたんだ。一般的なことだよ」
 僕は半分目を閉じたり開けたりしながら、答えた。
「そっかぁ。ううん、でも何か実感ないなぁ。本当にそうなのかな。ねぇ、そう思う」
「そうなんじゃない。だって心当たりあるだろ」
 僕がそう言うと千明は不服そうに、ないよ、と答えた。
「そんなことないだろ。エッチすりゃ、避妊してたってできちゃう可能性はあるんだから。ましてや、そんなことしてないんだし」
「本当にそうかなぁ。よくわかんないよ」
 千明は、いやいや、と首を横に振っている。
「とにかく、医者にいかなきゃ」
「ううん、でもね。恥ずかしいよ」
「そんなこと言ってる場合かよ。病院だって初めてじゃないんだし」
「とは言っても、もうだいぶ昔のことだよ。あまり知り合いの人にも会いたくないし」
「別に近所の医者じゃなくてもいいんだろ」
「でもね」
「そのために引越しだってしたんじゃないか。僕らのこと変に思う人なんかいないよ」
「ねーえ、ほんとにそうなのお。千明、ほんとにできちゃったのお。ねぇ」
 千明はまだそんなことを言っている。
「なんだよ、やなのかよ」
「やだってわけじゃないけどさ。でもやっぱ信じられないのよ。あれって間違いってことはないのかな」
「ないよ。妊娠しなきゃ反応しないわけだし。反応があったんだから、妊娠してるんだよ」じたばたとソファの上で暴れる千明のお腹の上に僕はそっと手を置いて「ここに、赤ちゃんがいるんだよ」と付け加えた。
「赤ちゃんかぁ」
 千明は赤ちゃんという単語になにか感じるものがあったらしく、赤ちゃん、赤ちゃんと連呼しだした。
「ねぇ、パパだよ。トシさんがパパになるんだよ。大丈夫」
 千明が急に攻めるような目をして僕を見つめた。
「大丈夫ってなにが」
「お父さんになるんだよ。ちゃんと子供の面倒みれるの。ねえ」
「そりゃあ見るさ。自分の子だもの」
「嘘だよ。そんなの。みれるわけないよ。自分のこともろくにできやしないのにさ。子供はトシさんだけで十分だよ」
 僕は、連続して繰り出される千明のパンチを無抵抗に受けながら「父親か」と呟いた。
「そうだよ。トシさんが子供みたいなのに、父親だよ。そんなの変だよ、やっぱり」
「変なもんか。子供が大人にしてくれるんだよ。昔の偉い人もそう言ってた」
「誰よ、それ。そんなんじゃだめだよ。結局さぁ、千明が大変なだけじゃんか。子供二人も面倒見れないよ。トシさんなんかパパになる資格ないんだよ、やっぱり」
 父親の資格。そんなものがもしあるとすれば、どれだけの大人がその資格を有しているのだろう。いや、すべての子育ては何の装備も持たずに冬山の登山に挑戦するようなものにちがいない。ライセンスなど役に立つものか。自覚のあるなしを問わず、一発勝負のやり直しがきかない本番の子育てを与えられている父親という役割で日々こなしていくのだ。間違っているかどうかさえわからず、しかし歩みを止めることが許されない戦い。はたしてそのような途方のない旅が、もう始まっているというのだろうか。
 ふと、小さい頃に出て行った自分の父親の姿を思い浮かべて見る。少なくとも彼には資格はなかった。子供を作る資格もなければ、人を愛する資格もなかった。十代の少女を略奪するように自宅に囲い込んだ彼は、無理やり孕ませたうえに出産を強要した。そしてろくに金を稼ぐこともできない馬鹿な母と、ようやく小学校に行きだした息子の僕を邪魔と見るなり、今度は勝手に出て行って姿を見せなくなった。知恵のない女はすべて男の言いなりになる。そして息子を抱いて毎晩泣いているうちに彼女の精神は崩壊してしまった。幸いだったのは、男にもてあそばれて捨てられた女の境遇を僕が理解していたことだ。幼いながら「母を幸せにできるのは自分しかいない」と心に刻んだことを僕は今でも覚えている。
「ねえ、聞いてるの。トシさんがパパなんでしょ。パパが決めなきゃ」
「決めるってなにを」
「もう、やっぱ聞いてないじゃん。生むか、生まないかだよ。パパが決めるんだよ」
 千明が真顔でそういったので、少なからず驚いた。
「本気で言ってんのか。生むに決まってんじゃんか」
「へえ、そうなの。そっかあ、その気あるんだ」
 へっへっ、と千明が舌を出して笑っている。
「だって、前から欲しかった子供じゃないか。せっかく授かったんだ。それに、俺たちに堕ろす理由なんかないじゃない」
 そう言って、千明のお腹をさすりながら千明の目を見ると千明も笑うのをやめて、そしてかわりに口を尖らせた。
「だってさ、トシさん。父親って大変なんだよ。トシさんが二人の方がいいなら、それでもいいんだよ」
「そりゃずっと二人で生きてきて、二人も楽しかったけどさ。やっぱり子供は欲しいよ。いつでも誰でも授かるものじゃないんだから。学校辞めて働くよ。一緒に育てよう」
 今度は千明の頭をなでてやり、おでこにキスをした。
 千明は震えていた。
「どうした」
「千明、怖いの」
「何が」
「トシさん。子供生んだら私を捨てるんでしょ」
「何を言ってるんだ」
「だって、子供生んで、お金稼げないから、私邪魔になるんでしょ」
「馬鹿なこと言うなよ。千明を捨てることなんてできないさ。ずっと一緒だったじゃないか」
「ずっと。ずっと一緒なの」
 千明は目にいっぱいの涙を浮かべている。
「そうだよ。親父が出ていった時から、ずっと二人で生きてきたんだ。これからもずっと一緒にきまってるじゃないか。千明」
 僕はそっと震える母を抱きしめた。

小説「病室をたずねて」

 病室の扉を開けると、藤田は以外と元気そうに迎えてくれた。あまりに普段通りの笑顔に逆に戸惑ってしまう。牧村は手に持っていた焼き菓子の紙袋をベッドの端に載せ自分もその隣に座った。元気そうではあるが近くで見るとやはり少しやせた気がする。
「ひさしぶりじゃないか。ずいぶん元気そうでなによりだよ」
「元気ならこんなところにいないさ。お見舞いに来てくれたんじゃなかったのか」
「まあ、一応ね。お前が大人しく病人してるかの調査を兼ねてさ」
 牧村はジロジロと藤田を観察し、そしてぐるりと病室を見回した。
「とりあえずのところ、問題は発見できずってとこだな」
 藤田は申し訳なさそうな表情で笑った。
「すまない。わざわざ来てくれて」
「あやまるなら、真っ先に俺に知らせなかったってことだろ。水臭いじゃないか」
「すまない」
 と言いながら頭を下げた藤田は、そのままもう一度「すまない」と静かに言った。
 一瞬の沈黙のせいで病室特有の陰気さが二人を包み、牧村は思わずため息をついた。いくら普段と変わらない軽口がたたけていても、藤田が個室をあてがわれる病人であることに違いはない。職場で倒れて緊急入院してから、もう3週間が経ったという。藤田は親しい友人達の誰にも伝えないつもりだったらしいが、病院の近くでばったり出会った藤田の母親が謝りながら教えてくれた。牧村はまず驚き、そしていても立ってもおられず、母親に面会を申し込んだ。母親の取次ぎによると、藤田は特に拒絶する様子もなく、翌日ならと受け入れてくれたらしい。元々気さくだった母親の様子を見ていて、なんとなく詳しい病状を聞き出すことがはばかられたので、牧村はさまざまな想像を膨らましながら藤田の病室を訪問したのだ。そして今、顔を見ることができて安心した反面、現実を直視せねばならなず、複雑な心境が重いため息となって牧村の口から漏れ出てしまった。
「ま、元気だしなよ。別にお前の体が痛むわけじゃないんだからさ」
 藤田は本当に人事のように言った。
「ってことは、お前の体は痛んでいるのか。一体どんな状態なんだ」
「そりゃね。突然倒れて、気が付いたらベッドの上だから。無事ってわけじゃないんだよな」

「笑ってる場合かよ。どうなんだ。いつ頃退院できるんだ」
「わからない。正直なところ」
「普通の病気じゃないのか」
「ああ。聞いたことのない病名だったよ」
 治らない病気なのか。牧村はその言葉を飲み込んで、笑顔を作った。
「やるじゃないか。そんな体験なかなかできるもんじゃないぞ」
「そう言ってもらえると少しは嬉しく感じれるよ」
 窓の外をみると、いつの間にか雨が降り出している。薄暗い雲で埋め尽くされた空が、窓から病室の中まで入ってきそうだ。牧村は、部屋の中なのにずぶぬれになっている自分と藤田を想像して悪寒に震えた。
「ちょっとブラインドを下げてくれないか」
 藤田は、ベッドに座ったまま背中側の窓を振り向いてそういった。少し手を伸ばせばブラインドの操作をできそうにも見えたが、牧村は黙ってブラインドを下げた。雨の音が遠のく。
「きらいなんだ。その、雨の音が」
 ブラインドの降りた窓をもう一度振り返り、言い訳のように藤田がもらした。
「ずっとあの音を聞いてるとさ、なんだか自分がずっとちっぽけな存在で、大きな川の中をどんどん流されていってるような、心細い感じがするんだ」
「前からそうだったのか」
 牧村が聞くと
「いや、前からのような気もするし、ここに来てからのような気もする。最近、雨が多くて気が滅入るよ」
 藤田は力なく言った。
「怖いのか」
 ためらいながら、それでも藤田の目をみながら牧村は聞いた。
 藤田はしばらく何事かを考えるように視線をあちらこちらに飛ばしてから、牧村を見つめた。
「怖いよ。なんて説明していいかわからないけど」
「俺に何かできることはないか」
「そうだな」藤田は少しはにかみながら言った。「雨が降る日には、ブラインドを閉めに来てくれると嬉しいけど」
「まさか。今年の梅雨は長いんだぜ。そんなにしょっちゅう病院に来てたら、こっちまで病気になっちゃうよ」
 牧村は自分で言って自分で笑ったが、藤田は笑わなかった。
「そんなに長くはないんだ」
 藤田がそうつぶやいたので、牧村は笑顔のまま表情をこわばらせた。
「梅雨の話じゃないよな」
「僕のことだよ。そういう風に医者に頼んでるんだ。無闇な延命はやめてくれって」
「どうして」
「ちゃんと、この自分の体のままでいたいんだよ。わかるかな。あっちこっちを切られたり張り合わせたり、何かと入れ替えたり、詰め込まれたりしないでさ」
「一時的にそうすることで良くなるってわけじゃないのか」
「結局のところ治らないんだ。そう言われた。だったら、余計なことはしてくれなくていいと思ったんだ。ただ生きてる日数を増やすためだけに、自分が自分でなくなるのは、ちょっと怖い」
 藤田は、なにか見えない恐怖におびえるような目をして言った。
 残酷な話だ、と牧村は思った。藤田も自分もまだ若い。人生はこれから、といってもいい年齢だ。こんなところで、もう終わりが見えているなんてとても信じられない。
「最近、雨の音を聞きながら良く考えるんだ。3週間前に倒れたときに、その場で死んでたらどうだったろうってね」
「何を言うんだ、そんなこと」
「いや、違うんだ。よく考えてみてよ。あの時、僕の人生は実質のところ突然終わったんだよ。そうだろ」
 あまりの藤田の冷静さに、牧村は口をつぐんだ。
「たとえば、本当にあの時点で死んでいたとすれば、僕の人生は果たして幸せだったろうか」
「それはつまり、こういうことか。ずっと生きていられると信じていて突然終わる人生と、余命をカウントダウンされて残りの人生を見つめながら死ぬのと、どちらがいいかってことか」
「そういう話だ。牧村、君だっていつか死ぬだろ。でも死ぬ気なんてしない。死ぬことなんて考えたこともない。そうだろ。僕もそうだった。でも、僕はもう知っている。明日にはこの世にいないかもしれないってことを。本当はみんな同じ条件だと思うんだ。みんな明日には死んでいるかもしれない。死がどの程度まで近くにあるのか、知りようがないんだもの。50年先かも知れないし、30年先かも知れない。10年後か5年後か来年なのか、はたまた今日なのか」
 牧村は下を向いて小さく何度もうなずきながら、藤田の語ることに耳を傾けていた。
「あの時、突然倒れたあの時に、僕は死ななかった。あの時に死んでいても、僕が人生のうちにやれたことの数はそう変わらなかっただろう。でも死ななかった。余命が与えられた。なぜ、僕は死ななかったんだろう。それを考えると、生きているうちに何かしなければならないことがあるんじゃないかって思えてきてね」
 牧村は考えた。自分もいつか死ぬ。誰でも知っていることだが、誰もが目を背けて生きている。というより、死なないことが人生だと言える。死ぬことが人生の終わりだからだ。だから、死なないように生活し、死んでいない明日を信じて生きていく。それでも終わりがあると知ったときに、人は生きているうちに何をすべきかという問題に初めて本腰を入れて向き合うのだ。今の藤田のように。
 牧村は思ったことをそのまま口にした。
「俺は人生で何をして、何をしてこなかっただろう。これから死ぬまでに何をしなければならないかなんて。そんなこと、考えたこともなかった」
「まあ、あせることもないんじゃない。やり残したことなんて、大概たいしたことじゃないんだ」
 牧村が深刻そうな表情でうつむいたので、藤田はかえって励ますみたいに明るく言った。
「そうなんだよ。僕が、これまでの人生の総決算としてやり残したことなんか、たいしたことじゃない。とっても単純なことなんだ。そして僕はそのことに気が付いた。君のおかげだ」
「俺のおかげだって」
「実は僕も、何も思いつかなかったんだよ。雨の音を聞きながら、何度も考えてみたんだけどね。これから死ぬまでにすべきことについて。でも、そんなときに君と母がばったり会って、君が会いたいと言ってきた。それでピンときたんだ」
 藤田はハハッと、嬉しそうな声で小さく笑った。
「君に、言い忘れていたことがある」
「なんだい、それは」
 牧村は藤田の目を見た。藤田は満面の笑みを見せ、ゆっくりとこう言った。
「いつも、ありがとう。君の最高の友情を忘れない。たとえ死んでもね」

テーマ:自作小説 - ジャンル:小説・文学

ショートショート「ある調査報告」

 報告いたします。私は、これまで260に及ぶ未開の星々に調査訪問してまいりました。その中で特にご報告申し上げたい件がございますので発表いたします。
 その星では、一部の人間が強大な権力を持ってその他の人間を従えるといった文明の初期段階にありました。科学技術もまだまだ発展途上にあり、ほとんど宇宙に出てくることのない民族です。調査訪問と言っても公式な交渉ができるレベルではないため、ビザの申請も行わず潜入することにいたしました。宇宙法では、未開の星での滞在において侵略や占領を目的としない限りはどのような利益を得ようと処罰の対象とならないことになっているので、違法と言うわけではありません。
 この星に下りてみて最初に感じたのは、この星の人間の騒々しさです。すべての人が何かに追い立てられているかのように落ち着きがない。労働と時間の制約に束縛され、息を切らしながら日々を送っているのです。 私は数日間の調査を経て、調査活動の目的を果たすために星の最高権力者と接触することにいたしました。しかし、どういうわけか権力者は私の存在をすでに認識しており、意思を伝えるだけで接見を快く受け入れてくれたのです。
「驚きました。この星では宇宙の広さを理解している人間が、まだいないものだと思っていましたので」
 私は無礼にならないように細心の注意を払いながらそう言いました。

「確かにこの星では、ほとんどの者が宇宙に高度な文明があることを知らない。ただし知らないのは奴隷たちだけで、それ以外の人間はよく理解している。君がいつどこに到着して、ここで何をしていたのかの全部をね」
「そうだったんですか。それは大変失礼しました。宇宙ではここを未開の星と認識しているものですから、調査訪問の打診も行わなかったのです。今日からは認識を改めさせていただきましょう」
「それはさておき、何を目的にこのような未開の星に来たのだ。私に接見を求めた意味はどこにある」
 私は敵意がないことを懇切丁寧に説明し、慇懃な態度でこう付け加えました。
「ですから、星の構成を成す物質と星をとりまくガスについて、さらには星ごとの文化や文明について研究していたわけです。そして実は、調査を進めるうちに気になったことがありましたので、それをどうしても星の最高権力者にお尋ねしておきたいと」
 彼は私の話を聞きながら少し思案顔をして見せたりしましたが、特に怪しむと言った様子もなく、全面的に私の話を信用してくれたようです。
「なるほど。で、どんな内容のことだね」
「この星に住む人々は一様にあなたのために労働し、代償に得た賃金をまたあなたに献上している。喜んで人生のすべてをあなたに投げ打っているようですが、私のこれまでの調査では、そこには暴力もなく、契約もなく、シャーマニズムもなかった。とすればいったいどのようにして60億を越す人間をコントロールしているのでしょうか。私はこれまで様々な民族の文明を見てきましたがこのような例はほかにありません。あなたと民衆をつなぐものは一体何なのですか」
 すると権力者は、いかにも「つまらない」という表情を見せてこう言いました。
「どうも誤解があるようだ。私が支配しているのは意見を持った民衆ではない。私に仕えるためこの星に住んでいるほとんどの人間は、ただの奴隷に過ぎないのだ。彼らにはなんら思考する能力も与えてはいない。家畜同様、ただ単純に死ぬまで働くだけだ」
 私は驚いて言いました。
「60億を越す人間のほぼ全てが奴隷ということですか」
「その通りだ。そして彼らは奴隷であることにも気が付いていない。自分の意思で働き、自分の意思で星を富ませていると思っている。奴隷といっても、それぞれが好きでやっているのだから、だれも嫌がりはしない。そこには強制も信仰もありはしない」
 私はこみ上げる笑いを堪えて、いたって神妙に言いました。
「知恵のあるものは誰一人いないのですか」
「へたに知恵をつけないように、ちゃんと教育を行っているんだ。その結果、彼らは自身の快楽のためにしか真剣にならない家畜に成長する。恋愛やギャンブル、名誉や平等や平和などのさまざまな快楽を創出し、自分の意思で好みの快楽を選択して、それらを享受するために死ぬまで働く」
「あなたと民衆を結び付けているのは、つまり依存ですか」
「そのように言えるかもしれない。彼らはそのことに気づきもしないが」 
 彼は満足そうに語ります。そして私は試すようにこう言いました。
「しかし、気づくかもしれない。いつ反乱が起こるかわからないとは思いませんか」
 彼は声を出して笑い出しました。
「気づくきっかけを与えたりはしないさ。搾取の対象としての日常に不満を持たないように、愛こそはすべて、と教えておくんだ。洗脳と言ってもらってかまわない。それに、金銭にしろ物にしろ名誉にしろ、欲を掻き立てておけば極たまに満たしてやるだけで人は人生に満足するものだ」
「しかしこれからの宇宙社会で、この星はこのままでいられるでしょうか」
「これまで通りだ。私はこの星を支配し続けるし、君たちはこの星に干渉できない」
「しかし例えば、私がこの星の文明を正確に報告すれば、必ず全宇宙において民衆救済の運動が起こりますよ」
「奴隷達は君らの言うことなどに耳を貸すまい。星や宇宙のことなど、考えない方が彼らにとって幸せなのさ。彼らには、私が支配者であることも、自分達が搾取の対象であることも、まるで認識がない。ここでの君達は、救済者などではなくただのインベーダーなんだよ」
 私はこれ以上の交渉に意味がないことを悟り、すぐにこの星をあとにしました。われわれの星に帰ってこの重大な情報をもたらすためです。
 私はこれまで260の未開の星を調査いたしましたが、この星の発見が最大の収穫と言えるでしょう。この星こそ我々が探し続けた星に違いありません。ここなら宇宙法を犯すことなく、すぐにでも植民地化が可能です。60億もの奴隷をしたがえる支配者に、こっそり成り代わるだけのことですから。

テーマ:ショート・ストーリー - ジャンル:小説・文学

小説「赤いカミナリ」

 人はなかなか見かけによらないものだ。
 付き合いを持ってみると、見た目の印象とまるで逆の性格の人がいる。そればかりではない。付き合いはもっていてもその実、腹の中では何を考えているのかわからないのが人間だ。
 タクシードライバーなんて仕事をしていることで、私は毎日とんでもなく多くの人に出会う。見たくもない人間模様もいくつも見せられた。本当に世の中には色々な人がいる。私は今までにたくさんの人を乗せて車を走らせた。驚いたのは、突然殴り合いの喧嘩を始めた夫婦とか、親から金を文字通りむしりとった学生とか。靴を履き忘れたまま車に乗ってしまったお爺さんもいた。他にも、本当は金もないのに豪勢に振舞う奴、男がいる時といない時では態度が変わる女、殺してやりたいほど腹の立つ上司におべんちゃらを使う中年サラリーマンなど。そういえば二股男の電話のやり取りは傑作だった。もっと変わったところでは、出産直前の妊婦さんや、ものすごく男にもてる美人の男性とか、大物俳優だとか、時には無賃乗車の客なんてものまで後ろに乗せて車を走らせてきた。
 長いことやっていると不思議なことも起こるもので、私は同じ日に同じ客をまるで違う場所でひろって、客と互いに驚きあったことがあった。世の中には人間の頭ではわからない色々なことが起こるもので、信じられない話だがそんなことが本当にあったのだ。
 中でも忘れられない客がいる。できればもう一度あってみたいのだが、その人と出会ったのはたった一度のそれっきりだ。ほんのひと時同じ時間をすごしただけだったが、私の心にはその存在が、暗い時にだけほのかに暖かいロウソクの灯かりのように静かに輝いている。
 もう八年も前になるだろうか。その時私は酷く落ち込んでいた。突然、学生時代からの親友を事故で亡くし、人生について虚しさを覚え、何もかもに無気力になっていた。あまりにも近い人が死んでしまったので、この私もいつか死ぬのだなとリアルに感じた。親友のあまりにもあっけない死に、私は漠然とした恐怖とあせりを感じずにはいられなかった。しかし、私はそうしたことを何も考えないことでやり過ごそうとしていた。その時はまだ若さにも自信があったし、大きな病気にかかったこともなかった。妻や子供もいる。私にはやり残したことが山ほどあるのだ。しかし、突然そんなことが私の身に起きたら。私は何度も同じ事を繰り返し思い描いては頭を左右に振って、何も考えないことだと決め付けていた。
 落ち込んでいた理由は実はもう一つあった。私は彼を救えなかったのだ。私は薄々彼が死んでしまうことを知っていた。しかし、まさか本人に「君の葬儀を出す夢を見た」とはいえなかったのだ。もちろん私だって半信半疑だった。いや、むしろ信じたくなかった。まさか本当にそんなことが起ころうとは。しかし実際、私は夢の中と現実の葬式でと、二度も悲しい思いをして涙を流したのだった。
 その日の雨はやけにしつこさがあった。少し勢いが落ちてきたなと思うと、すぐに雷をともなった大雨になっている。もうすぐ夏だというのに、いつまでも梅雨時みたいな雨が降っていた。

 夕方だった。ちょうど雨足が静かになってきて、厚い雨雲の向こうで西の空が微かに赤く染まっていた。私は次の客をひろいに、ある大学の前を通って大きな駅へ向かう途中だった。たまたま赤信号に引っかかり大学の前に車を止めると大学の正門から、いかにも学者然とした男が、私の車をめがけて手をあげて走ってくる。見ると傘もさしていない。確かに雨足は弱まったとはいえこれからまた降らぬとも限らない。よほど急いでいるのか、単にそそっかしいのかはわかりかねた。
 扉を開けてやると、彼はすぐさまシートに滑り込み安堵の息を漏らした。車内に入ったので、男の融通のきかなそうな顔がはっきりと見てとれた。やはり学者なのだとすぐにそう思った。私が振り返って行き先を促すと、考え事をしていたのか学者は驚いたように私の顔を見つめた。彼はしばらく私の顔をまじまじと見て、やっと何を聞かれたのかを知ったかのように何かに気がついて微笑むと、駅前にあるホテルの名を告げた。私は変なのをつかまえてしまったと少し自分の運のなさを呪って車を発進させた。
「ここんとこの雨は、ほんとにひどいですね」
 そう、最初に話し掛けてきたのは以外にも学者のほうからだった。
「ええ、そうですね。朝から晩までひっきりなしですよ」
「調子はどうですか?雨降るとお客は増えますか」
 にこやかな笑顔がルームミラー越しにのぞける。よくみるとネクタイをはずし、背広も脱いでくつろいでいるようだ。まるで顔見知りの家に訪ねてきたような態度に見える。
「ええ、今日なんかは休憩していても乗せてくれって言われるくらいです」
 私は男の嬉しそうな笑顔とその似つかわしくない態度に目を見張りながら、やはりにこやかに答えた。すると向こうのほうでもこちらを伺っているらしくミラーの中で何度も目があった。男は私の顔を見ては何かを確かめるようにうなずいている。はて、過去にあったことのある人物であったかと、こちらが考え直すほどに親しげに私の顔を見てくるのだ。が、間違いなく初対面なのである。あまりにそのことが気にかかったので、前にお会いしたことがあったかと聞こうとしたとたん、学者の携帯電話が私の質問を引っ込めさせた。
 学者は、「失礼」と断ってから電話に出た。とても几帳面で事務的な話し振りに聞こえる。どうやら、目的地に人を待たせているらしい。彼は腕時計を何度も確認して、しきりにうなずきながらあと四十分はかかるといった。
 現在七時五分。私はタクシーの運転手だ。時間配分には自信がある。多少車の数は多いがこのペースならば、遅くても七時三十分、速ければ七時二十分に目的地に着くはずだ。どんなに遅くなっても七時四十五分になることはない。これは一言いってやろうと振り向くと学者は「いいんですよ」と首を振る。「お急ぎでしたら飛ばしますよ」と言うと、「それには及びません。それよりも雨ですから、ゆっくりと前を見て運転してくださいな」 となんの悪びれもなく言う。
 変わった人だな。というのが正直な印象だった。
 雨がひどくなってきた。遠くのほうで次々に雷がひらめいていた。そういえば私の親友が死んだ日もこんな雨の日だった。車に乗っていた彼は雨に濡れた路面にタイヤを取られて、交差点に飛び出したところを真横からトラックに衝突されたのだ。ひとたまりもない。遠くに、また近くに落ちてくる雷。鋭く光っては地面を揺らすほどの音をたてている。私はその一瞬の紫を見ていて、ふと少年時代に見た嵐の光景を思い出した。
 私は子供の頃、海の近くに住んでいた。友達との遊び場は海岸だ。そこでは波打ち際が子供達のグラウンドだった。ある日大きな嵐がその海岸にやって来た。水平線の向こうが無気味な色になっていたのを覚えている。私達家族は家にいては危険だと判断し、もっと街に近い親戚の家に非難していた。当時、海岸に建てられた木造の家は、嵐が来ると次の日には姿を消しているということが度々あった。私の家を含めその辺の家はそれほど粗末な家でもあった。その為、海に不穏な様子を感じ取ると近所中が軒並み異様な空気に見舞われた。しかし少年時代の私にはそんな嵐の恐ろしさなど微塵も感じることができなかった。私は親の隙を見て、親戚の家からこっそり抜け出し我が家に向かって走った。じっとはしていられなかったし、嵐をこの目で見てみたくもあった。
 しかし、私の予想を越えて嵐は凄まじかった。私が心細くなって親戚の家に帰ろうとしたとき、大波が我が家の玄関を洗い去った。私は短く叫んだ後、声を失ってたちすくんでいた。私はその時無数に落ちる雷を見た。一面が目を開けておれぬような雨と、波と、雷だった。そしてその雷の色が私の身体を痺れさせていた。荒れる海に落ちるのは赤いカミナリだった。ただの雷ならその当時の私でも何度も見たことがある。ところが赤いものなんて見たことがない。しかも幾筋も見える雷のことごとくが赤なのである。その光景は強烈なインパクトで私をひきつけた。私が赤いカミナリに魅せられて、大粒の雨が降りしきる中ただただつったっていると、脇から父親の大きなカミナリが落ちてきた。その場で張り倒された私は、父に抱えられて親戚の家にたどり着き、夜遅くまで散々絞られたのだった。
 私は我に帰って学者を見た。私には前々から疑問に思っていたことがある。その時の赤いカミナリのことだ。私はその時、確かに赤いカミナリを見たのだが、誰もそのことを信じようとしない。その場にいた父でさえそんな色の雷があるものかとまるでとりあってくれないのだ。本当にそうなのだろうか。赤いカミナリ。あれは超常現象だったとでもいうのだろうか。それとも私は幻でも見たのだろうか。もう一度学者を見た。たまたま乗せているのはこの男だ。もしかしたら私の疑問に答えてくれるかもしれない。私は試みにこう聞いてみることした。
「お客さんは学者さんですよね。学者さんは超常現象とか信じますか」
 突然の質問に男は若干たじろいだみたいだったが、すぐににこやかな顔に戻り、
「超常現象ですか。ま、分野にもよりますけど。私は自然科学を学んでいますので、あまりに突拍子もないものは信用しませんね。信じたいとは思いますけど」
 と答えた。
「そうですか。一つ聞きたいことがあるのですが、よろしければ教えていただけませんか」
「ええ、いいですよ。僕に答えられることなら」
 学者がそう言ってしきりにうなずいているので、私は少年時代の思い出を彼に話して聞かせた。
「その時の光景は今でもわすれられないのです。あんなに厳しい表情の海を見たのもあの時が初めてでしたし、なんといっても赤いカミナリが次々に落ちるのをこの目ではっきりみてしまったのですから」
 学者を見ると真剣に話を聞いている。
「なのに誰も信用してくれない。そんなものはないと言うのです。では私の見たカミナリはなんだったのでしょうか。本当に赤いカミナリなんてないのでしょうか」
 私が話し終わると学者はしばらく低い声でうなったあと、
「そうですか。そんなことがありましたか」
 と、どちらでもないような返事をした。
 こころなしか雨がさらに激しさを増してきたようだった。学者の声が聞き取りづらい。
「確かに普通、雷は赤いものではありませんし、赤く見えることもありません。が、世の中には人間の頭ではわからない色々なことが起こるものですから。あなたの言うように赤いカミナリが落ちることもあるのでしょう」
 彼はそれが癖であるらしく、しきりに何度もうなずきながら、ゆっくりとそう言った。私は学者の意外な言葉に「そうですか」としか言えなかった。この先生は本当に大学で自然科学だかなんだかを学生に教えている人なのだろうか。私は不信気に彼を見た。見た目はやはり堅物の学者そのものだ。
「やっぱり何かそういう、科学では計り知れないことも時にはあるものなんですか」
「あるのではないかと信じています」
 男はなぜか暖かい微笑みを浮かべていた。まるで彼の前であればどのような非科学的なものも、真実として受け入れられるかのようだった。それはたんに彼の優しさによるものかもしれない。しかし、私はその優しい笑顔を見て、なんだか自分の悩みをこの男に聞いてもらいたい気持ちになってきた。何かそういった、人を安心させるようなところがこの男にはあった。本当に始めてあった人には思えなくなってきたのだ。今思えば、私の精神状態は非常に危ういバランスにあったのかもしれない。
 私は思い切って口を開いた。
「あのう、もう一つ聞いてもらっていいですか」
「ええ、けっこうですよ」
 と学者はうなずいている。
「私には今、悩み事があるのです」
「それは、どのような」
「実は先日、大学時代の親友を亡くしてしまいました。とても優しい、思いやりのある、いい奴でした」
 学者を見ると、どうぞと黙って聞いている。
「こういうのを超常現象と言うかどうかは知りませんが、デジャビュ、って知っていますか。既視感とも言うそうですが、どういう理由か昔からよくあるのです、そういう感覚が。やけにはっきりとした記憶で夢を見て、その時のことをしっかりと覚えているのです。恐ろしいほどに。そしてそれが現実になる。これは信じられますか。こんなこともあるのでしょうか。それを予知夢だなんていい方をすれば人もうらやむような能力だと思われますが、とんでもない。私はある日、親友の葬式の夢を見ました。すごく悲しかった。目が覚めて私は泣いていました。そして程なく現実の葬式で、私はまた泣いていたのです。ああ、本当にあいつの葬式をだすなんて。私はもうこんなのは嫌なんです。私だけ、こんな、二度も悲しい思いをしなければならないなんて。しかも、私にはどうやったって現実を変えることなんかできないのです。そんなことなら、知らないほうがよかった。そう思うんです。いや、ごめんなさい。信じてもらえないでいいです。つい興奮してしまって。いいんです。私の思い違いなんですから」
 黙ってしまった学者の暗い顔を見て、やはりこんな話しなければよかったと思い、悲しさと後悔を紛らわすのに、息苦しい沈黙をわざとらしい咳払いで埋めてみた。ウインカーを右に出す。車内の静けさはしばらくその時計のような音に支配される。交差点を右に折れると細い道に入った。
 少し進むと雨粒のフロントガラスの向こうに赤いテールランプが延々と並び、車は少しも前に進まなくなった。遠くのほうからクラクションの音が幾つも聞こえてくる。私は思わず左手を額に当てて、まいったなぁと思った。これはおそらく事故だろう。雨の日に細い道で事故でも起きればイライラが募るのは人情だ。無論私が悪いわけではないが、とばっちりでどやしつけられることも少なくない。見た目ほどは気難しい人ではないのだろうが何も言わないわけにはいかない。できるだけ申し訳なさそうな声を出す。
「お客さん、どうも事故みたいですね」見ると、男はそのことに今気づいたのかように前方を見つめ「ええ、そうですね」と微笑んだ。
「動きそうにないので、少し道を変えますがいいですか」
 と聞くと、
「ええ、けっこうです。少し遠回りするのでしょう。いいですよ」
 と丁寧に答え、むしろこちらのことを気遣うようにしてくれている。とても人を待たせている人間の態度とは思えない。学者にまでなると、こういった人間の幅というか余裕ができてくるものなのだろうか。
 私はさらにわき道を抜け大回りをして先の大通りに戻った。
 そこで不意に彼が口を開いた。
「信じますよ。その話」
 驚いてブレーキを踏みそうになる。
「ええ、信じます。そんなこともあるでしょう」
 などとうなずいている。
 最初は何の事を言っているのか気がつかなかったが、彼のほうから話題を戻してきたのだとわかった。
「実は、僕もよく見るんですよ。そういう夢を。家系なんですかね。僕の家族はみんなそんな感じです」
 私は真面目腐った顔をしてそんなことを言い出した男に憤りを覚えた。馬鹿にしている。すぐにそう思ったのだ。
「ご冗談を」
 すると私の微妙に感情を含めた語気に気がついたのか、驚いたように、
「本当です。嘘じゃありません」
 と、訴えた。
「本当なんです。だからあなたの気持ちはよくわかる。僕はある日大きな地震の夢を見ました。そして、それは神戸にいる親戚の家がなくなってしまう夢でした。僕が慌てて彼らを東京に呼び出してみたら、翌朝とんでもない都市直下型の大地震が近畿地方を襲いました。親戚の家族は驚いてすぐに神戸に帰りましたが、彼らの住んでいた所は大規模な火災に巻き込まれた後でもうすでに住む家はなくなっていました。本当なんです。私が余計なことをしなければ、もしかしたら彼らは家を失わなかったかもしれない。しかしこれが現実です。もっと身近な話もあります。僕の息子は大学も中退して仕事もせずに遊びほうけています。でも僕達は彼に何も言いません。あいつは若いうちに大きな病気で死んでしまう。そのことを知っているので、家族はみんな目をつむって息子の好きなようにさせているんです。かわいそうなやつです。本人もきっとそれを知っていてそうしているのだと僕は思うんです」
 男は淡々と語った。その表情や口ぶりを見ていると、とても今考えた作り話だとは思えない。それでもにわかには信じがたい話だ。まさか、そんな事が世の中に起こりうると言うのだろうか。なんだか、彼が学者であるということでさえも疑いを持ってしまう。赤いカミナリ、あれが現実であったように彼が言うことにも嘘はないと言うことだろうか。私は騙されている、そんな気がするほど男は饒舌に夢と現実の符合について語るのである。
 そしてまた、
「世の中には、人間の頭ではわからない色々なことがおこるものですから」
 と繰り返した。
 雨足は次第に弱くなり、雷もたまに山の向こうでくすぶっているのみになった。黒い雲の隙間から漏れてくる光に、目的地のホテルが遠くかすんで見えてくる。
「別に悪いことばかりでもないんですよ、正夢を見ることは。まぁ、とにかく暗く考えないことです」
 と彼は明るく言った。風が吹き始めたのか、長い雨を降らせていた雨雲は散って、私達の視界も明るくなってきた。
「確かに現実を変えることはできないかもしれない。いくら先を知っていても悲しい思いを二度することもあるでしょう。でもいいこともあるじゃないですか。たとえそれがどんなことでも、人より先に心の準備ができるんですから、人より余裕を持って生きることができるんです」
 男はやけに説得力のある口調で語った。
「人が、うらやむような力を持った人には、やはりその他の人にはわからない悩みがあって当然です。何かを得るときには代償が必要です。お金だって、権力だって、名声だって、全部そういうことだと僕は思うのですよ。他人から一見幸せそうに見られることが、実は当人にしてみれば悩みの種でしたなんて、よく聞く話です。だから、だからこそ僕は、この先を見る力を、先を見てしまう悩みを、自分の中で完結させないで、人のために利用したいと思うのです。でないと、どう考えても損でしょう」
 と、いたずらっ子のように笑う。
 車はもうホテルの前に着いていた。二千六百八十円だというと、彼は千円札を三枚出して、時間通りに着いたのでお釣りはとっておいて下さいと言った。そして、車を降るその時になってまたじっと私の顔を見た。じっと私の顔を見て、
「実はね僕、あなたから車の中で赤いカミナリのお話を聞く夢も見ていたんですよ」
 と言って嬉しそうに笑った。
 時計はちょうど七時四十五分だったが、五十分になるまで私は車を出せないでいた。

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ショートショート「目が覚めたら。」

 目が覚めたら総理大臣になっていた。


 寝ている場所はいつの間にか総理官邸だった。起きてすぐは、まさか自分が総理大臣だなんて気が付かないから、なぜ見知らぬところで寝ていたのかと昨日の行動をじっくりと振り返った。


 まず、酒を飲んだことは確かだ。起きてすぐだから、まだ酒気を帯びている。しかし記憶をなくすほど飲んだわけではない。友人と何事かを愚痴りながらわずかな酒を飲み、ほどなく一人暮らしのワンルームに帰って、なんだか寝付けなくてなんとなくテレビを眺めながら少しのビールを飲んだ程度だ。見知らぬ屋敷に侵入して堂々と眠り込むような酔い方をした経験もない。


 総理大臣であると自覚したのは「総理」と呼びかけられたからだ。大きな窓のある10畳ぐらいの部屋の中をきょろきょろと見回しながらうろちょろしていると、テーブルにしたら10人ずつは向かい合って座れるような木製の大きな扉がにわかに開いて、40代ぐらいの男であろうか、扉の向こう側にいる誰かが姿を見せずに「総理」と言ったのだ。


 部屋の中には自分しかいないものだから「総理」とは私のことに違いあるまい。かといって自分が「総理」でないことは百も承知なので返事をするわけにもいかない。だまっているともう一度「総理」と言いながら扉の向こうから男が姿を現した。男は40代ぐらいのまったく想像通りの総理大臣秘書であった。


 秘書はまっすぐ私を見つめてこう言った。


「総理、今朝のスケジュールはすでに押しております。すぐに移動の支度をお願いいたします」


 彼があまりにも真剣な目をしているせいで、私は少しことの重大さに気が付いた。彼は私のことを総理大臣だと認識しているのだ。そんなはずないのに。悪い冗談なら早く終わりにしてもらわなくてはならない。まずはこちらの話を聞いてもらおうと考えた。


「すみません」


「なんでしょうか、総理」


「あの、少し待ってもらえませんか」


 秘書は会釈してからニコリと笑顔を見せた。


「なんでしょうか」



「私は見てのとおり総理大臣ではありません。総理大臣でもないのに何故ここにいるのかはわかりませんが、とにかく私が総理ではないことは確かです。あなたは総理大臣が誰なのかは知っているのでしょう。それは決して私ではないはずです」


 私は二日酔いに由来する頭痛を感じながら、ゆっくりとしゃべった。


「はあ」


「ですから、私はここから速やかに出てゆきますので、あなたは本当の総理大臣を探して仕事に戻ってください」


 言い終わると秘書はもう一度会釈して笑顔を見せた。


「総理。あなたですよ、総理大臣は。スケジュールは分刻みにびっしりと組まれています。わけのわからないことをおっしゃってないで、いきましょう。やるべき仕事が沢山待っています」


 秘書は手際のよい指示で私の身支度をあっというまに終わらせ、私はというと粘着力のある眠気の中で反抗することもできず、大人しく言うことを聞いているうちに気が付けば車の後部座席に座らされており、見知らぬ町並みが音もなく車窓を横切っている。


 どうしてこんなことになったのだろう。あまりのことにとにかく混乱している。何かひっかかることがあるような気がしないでもない。いや、かといって特に思い当たる節があるわけでもない。昨日は友人と飲みながら、社会に対する不満を言い合っていた。うだつのあがらない酷い人生を呪って、二人で傷をなめあったのだ。そして私たちはそれだけでは何か収まりきらず、こんな自分に誰がした、と大きな声を上げたかもしれない。政治が悪い、とコブシを握り締めたかもしれない。あげく淋しいワンルームに帰ってさらにビールを飲み、何で自分はこうなんだろうと小さくつぶやいて布団も敷かずに寝たのだ。それが昨日の全てだ。それがこのような事態を引き起こしているとはちょっと考えにくい。昨日と今日の接点はどこにも見当たらないのだ。


 いや、自分で考えていても答えは出るまい。横に座っている秘書の男はノートパソコンと携帯電話を使って遅れているスケジュールの調整をしている。合間を見計らって声をかけて見た。


「あの、ちょっといいですか」


「なんでしょうか、総理」


 秘書は得意の笑みを真っ直ぐにこちらに向けてくる。


「しつこいようですが本当に私は総理大臣なんでしょうか」


「ええ、もちろん。総理だからこそ、このように私がおそばでお世話差し上げているわけです。総理でなければ困ります」 


 当然のこととばかりに彼は言う。


「いや、そういうことではなくて、私に総理大臣の公務をこなせるわけがありませんし、そもそもいつの間に総理大臣になったのかもわからないような次第ですから、やっぱり私が総理なはずないと思うんですけど」


 秘書は笑みを湛えたまま静かに首を横に振る。


「そんなことはありませんよ。かつてのどの総理大臣も、大変な謙遜をされてそのようなことをおっしゃいました。あなたは立派な総理大臣です」


 まずこれでは埒が明かない。言葉遊びをしている場合ではないのだ。車は目的地に向けて静かにスピードを上げているような気がする。そこで私は核心であろう部分に触れてみた。


「ところで、私はいつから総理大臣なんですか」


 一瞬、秘書の笑顔にわずかなかげりが走った、ように見えた。しかしすぐにその気配は消えて、もとの笑みが戻った。


「今日からですよ」


 意外とあっさりとした真相だ。


「やっぱり。どうもおかしいよ、この話は。なぜ昨日まで普通のサラリーマンだった私が今日から総理大臣になれるんだい。そりゃ確かに政治に対する不満の一つや二つはあるけどさ。それはいくらなんでもない話じゃないか。私はとんだペテンにかけられたよ」


 疑問によって大きく膨れ上がっていたストレスが、ぽっかり開いたはけ口に殺到して私は思わず怒りをまき散らかした。


「ようするに、これは嫌がらせだ。いたずらの域を超えている。あなたもいい加減こんなことは終わりにしましょうよ。実にくだらない。なにが楽しくて私にこのような仕打ちをするんでしょう。さあ、芝居はこれまでです。自宅に帰らせてください」


 それでも秘書は冷静そのものだ。すべて計算の内に入っていたのかもしれない。


「まあ落ち着いてください。これは芝居じゃありません。あなたは本当に今日から総理大臣なのです」


「そんな馬鹿な話があるか。そもそも国会議員でさえない私が、突然総理大臣になれるはずがないじゃないか」


「いいえ、昨日きちんと選挙が行われたのです。そしてあなたが当選したのです。任期は2年です。次の選挙までは誰がなんと言おうと、たとえあなた本人がなんと言おうとあなたが総理なんです」


「一体いつのことだ、それは。私は立候補なんかしてないし、政治に関心なんかないから選挙にも参加してないんだ」


「そうですか。それなら、もしかしたらご存じないのも無理ないのかもしれません。昨年から公職選挙法が改正されまして、全ての国民に国政を担う機会を与えるランダム抽選方式が採択されたのです。これからのあなたがそうであるように、国のあり方に関心のない無関心庶民でも国の重責を担えばそれなりの考えや責任感を持つようになります。一人一人の一般庶民が国全体のことを考えるようになることがどれほど大きく国を変えていくことか。全国民に当選の可能性があるんですから、皆が政治に対して常に関心を持っていくようになる。あなたは新選挙法での第一号の総理大臣に就任されたのです。内閣やその他のすべての議員も同じ条件で抽選された民間人です。どのような国にするか皆で考えて見てください」


「そんなの初耳だ。無茶苦茶じゃないか。国は本当になにを考えているんだ」


「ですから初耳だなんておっしゃっていること自体が問題なんですよ。昨年から毎日のように報道していたんですから。それに、このような選挙法を通さないように皆がきちんと政治を監視していれば、あなたなんかが総理大臣になることもなかったんです。でもこれからは人事じゃありません。しっかりがんばってくださいね」


 秘書は小さな子供に優しく諭すような表情をして見せた。 あまりのことに私は深いため息をつくしかなかった。まだ二日酔いの頭痛が続いている。


「もう一度、確認しますよ。私が、この私が総理大臣なんですね」


「はい。おっしゃる通りでございます」


 秘書がニコリと笑みを見せる。


「じゃあ私が一番最初にするのは、そのイカれた公職選挙法を改正することだ」


 そう言い放ったところで、私の他愛のない夢は終わった。目をゆっくり開けると、布団もかぶらずにいつものワンルームで寝そべっている。だらしなくボタンの開いたワイシャツには、なにかをこぼしたような汚れがついているし、テレビもつけっぱなしだ。二日酔いの頭痛で目を開けているのもつらい。無理に立ち上がれば吐いてしまいそうだ。でも、だからといってこんなに酷い生き様を政治のせいにすることだけは、しばらくできそうにない。

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