新しい記事を書く事で広告が消せます。
Ads by Google
HDDクラッシュ
忙しい日々だ。
どれだけ忙しいかと言うと、パソコンがぶっ壊れてもうずいぶんたつがなんともできず、結局修理もしないままに姉の使い古しのPCをもらいうけることになった。もらいうけはしたが、電源も立ち上げずさらにずいぶんと時間が過ぎた。
しかし、一度はPC中毒になって、ネットにつながっていないと不安で、幻覚を見たり手が震えたりしたこともある私だ。生活習慣がかわったからといってPCの必要性がなくなったわけではない。やむにやまれぬ事情があり、つい先週初めて電源をいれて姉が残したファイルを二日がかりで整理した。PCが壊れる以前のかつての環境に戻すにはさらに膨大な時間が必要となるが、そこまでのパワーはない。
HDDクラッシュの衝撃は、想像を遥に超え、私を究極のPC無気力状態にいざなったのだ。愛着が強かっただけに、拒絶も大きかった。忙しすぎるから。それは言い訳だったのかもしれない。
緊急的に必要なやむにやまれぬ作業はあっさりと片付いた。丸2日、PCにかじりついて、寝ずの作業だったが、PCとの格闘は嫌いじゃない。時間はあっというまに過ぎたが、楽しくもあった。
今日、ふと思い立って久しぶりに自身のブログに訪問してみると、いがいと訪問者が増えていてびっくりした。いまだに逆転裁判のレビューを見に訪れるひとがいるからだが、それでもだれかがここに来ているということは、なんだか私を心地よくさせる。
ここまで放置したブログだし、そもそも固定客のあるわけでもない。私の身近な人でここを知ってる人もいない。いつ閉鎖しても後ろ髪を引かれることはないわけだが、HDDがクラッシュしてすべてを失ったはずの私にしてみれば、唯一残った過去の遺物がこのブログでもあるのだ。思えばかわいい存在だ。
仕事が変わって、書くという作業がここまで日常から切り離されているということに、最近改めて気付かされた。私は転職していらい、まずほとんど文章を作らなくなった。せいぜい業務連絡などでのケータイメールが関の山だ。練るほどの工夫を凝らす余地はない。
逆に口を使って人としゃべる量は格段に増えた。人はしゃべることでコミュニケーションをとる。それは文章をじっくりかんがえるのとはまったく別の大変テクニカルでスポーティーな競技だ。表情、トーン、身振り、スピード、リズム感、相槌。それらのすべてを瞬間的な判断のもとで演出しなければ、いわゆる「うまいトーク」にはなりえない。「うまい文章」を目指して鍛えた筋肉は何の役にもたたないのだ。
当然、使わない筋肉は衰える。それが自然の摂理だ。私はゼロに等しかった話す能力を鍛えながら、書く能力を少しずつ捨てている。つまりそれは、HDDがクラッシュしてもそれに対処しないということなのだ。今までとは逆方向のベクトルに歩みを進めてしまっているから、それが平気なのだ。
ふと、このブログに立ち寄ったとき、私は自分が信じてきた自分の能力をもしかしたら閉じてしまったのではないかと、不安になった。本当にクラッシュしたのはHDDではなかったのかもしれない。
どれだけ忙しいかと言うと、パソコンがぶっ壊れてもうずいぶんたつがなんともできず、結局修理もしないままに姉の使い古しのPCをもらいうけることになった。もらいうけはしたが、電源も立ち上げずさらにずいぶんと時間が過ぎた。
しかし、一度はPC中毒になって、ネットにつながっていないと不安で、幻覚を見たり手が震えたりしたこともある私だ。生活習慣がかわったからといってPCの必要性がなくなったわけではない。やむにやまれぬ事情があり、つい先週初めて電源をいれて姉が残したファイルを二日がかりで整理した。PCが壊れる以前のかつての環境に戻すにはさらに膨大な時間が必要となるが、そこまでのパワーはない。
HDDクラッシュの衝撃は、想像を遥に超え、私を究極のPC無気力状態にいざなったのだ。愛着が強かっただけに、拒絶も大きかった。忙しすぎるから。それは言い訳だったのかもしれない。
緊急的に必要なやむにやまれぬ作業はあっさりと片付いた。丸2日、PCにかじりついて、寝ずの作業だったが、PCとの格闘は嫌いじゃない。時間はあっというまに過ぎたが、楽しくもあった。
今日、ふと思い立って久しぶりに自身のブログに訪問してみると、いがいと訪問者が増えていてびっくりした。いまだに逆転裁判のレビューを見に訪れるひとがいるからだが、それでもだれかがここに来ているということは、なんだか私を心地よくさせる。
ここまで放置したブログだし、そもそも固定客のあるわけでもない。私の身近な人でここを知ってる人もいない。いつ閉鎖しても後ろ髪を引かれることはないわけだが、HDDがクラッシュしてすべてを失ったはずの私にしてみれば、唯一残った過去の遺物がこのブログでもあるのだ。思えばかわいい存在だ。
仕事が変わって、書くという作業がここまで日常から切り離されているということに、最近改めて気付かされた。私は転職していらい、まずほとんど文章を作らなくなった。せいぜい業務連絡などでのケータイメールが関の山だ。練るほどの工夫を凝らす余地はない。
逆に口を使って人としゃべる量は格段に増えた。人はしゃべることでコミュニケーションをとる。それは文章をじっくりかんがえるのとはまったく別の大変テクニカルでスポーティーな競技だ。表情、トーン、身振り、スピード、リズム感、相槌。それらのすべてを瞬間的な判断のもとで演出しなければ、いわゆる「うまいトーク」にはなりえない。「うまい文章」を目指して鍛えた筋肉は何の役にもたたないのだ。
当然、使わない筋肉は衰える。それが自然の摂理だ。私はゼロに等しかった話す能力を鍛えながら、書く能力を少しずつ捨てている。つまりそれは、HDDがクラッシュしてもそれに対処しないということなのだ。今までとは逆方向のベクトルに歩みを進めてしまっているから、それが平気なのだ。
ふと、このブログに立ち寄ったとき、私は自分が信じてきた自分の能力をもしかしたら閉じてしまったのではないかと、不安になった。本当にクラッシュしたのはHDDではなかったのかもしれない。






